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コラム
 
 専門医として大切なこと   
    扇町レディースクリニック
院長 朝倉寛之氏

 今春、医学部卒業後20年を迎えた。これまでの道のりは、偶然とチャンスに彩られるものであった。産婦人科専攻をぼんやりと考えていた私は、まず一般診療のマスターをと思い、天理よろづ相談所病院総合病棟におけるレジデント研修を受けた。現在のスーパーローテート方式の原型がそこにあったが、一般内科・外科・麻酔科・救急医療研修に明け暮れたこの2年間は苦しくも充実した期間であった。"The patient will tell you the diagnosis."が研修の原則であった。最近、いずれも月経不順を主訴に受診された患者にクッシング病や末端肥大症を見逃さず、初診の診察は甲状腺の触診や胸部聴診を欠かさないのは、当時のベッドサイド教育に縁ると思う。

 当時の外科オーベン、小泉俊三先生(現佐賀大学医学部総合診療部教授)による推薦で実現した米国でのエクスターン体験がきっかけとなり、卒後3年目に行く先未定のままに渡米し、1990年よりシカゴ市のユダヤ系病院にて4年間の産婦人科研修を始めることとなった。 なんとか無事にチーフレジデントを勤めた後は、生殖内分泌・不妊症フェローとしてウェストコースト・サンディエゴに新天地を求め、大学助手として赴任した。そこで培ったのは、研修時代の知識の上にたった内分泌診察の真髄と技法であり、重宝されたのは、西海岸では廃絶したが中西部では依然伝授される鉗子分娩技術であった。

 フェローシップ終了後は、縁あってウィスコンシン州のポール・片山博士の下で4年半、開業医として不妊症専門診療医としての基礎を築いた。しかし当時の自分は、身の丈以上に背伸びをしていたのだと思う。在米12年目にして学会認定の不妊症・内分泌専門医となったあと、渡米動機の原点に立ち返り、2001年、9.11テロ直前に帰国した。田附興風会北野病院に奉職した際は、外国への留学同然の状態であったが、より自然体で一般産婦人科診療と生殖医療の実践を、心からエンジョイできた。

 2004年、わが国でのスーパーローテート制度の開始と偶然にも時を同じくして、自身の施設を立ち上げ、これまでにないパーソナルなケアを目指して診療を開始した。開業後もわが身を助けてくれるのは、卒業直後に叩き込まれた診察マナーと、問診を重視し、全身を診察する態度である。開始3年目を迎えるローテート制度の成果は、10年から20年先に結実すると、長期的な観点から期待したい。身につけた診療技術が本物となるには、医師のヒトとしての年齢とともに熟成することが必要と思うからである。
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